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関ヶ原での家康のリーダーシップ ― 小早川秀秋をめぐる武将たち

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相手の性格や状態によって、柔軟に接し方を変える能力は、コミュニケーションに長けたリーダーには必須の能力と言える。

関ヶ原の戦いの際、徳川家康は、西軍の小早川秀秋の寝返りを、鉄砲で催促した。一歩間違えば、逆に、怒ってそのまま自軍へ攻撃してくる結果を招くことにもなりかねない。

小早川秀秋は、西軍の多くの日和見の諸武将と同様、「勝つ方に味方しよう」という、ずる賢い考えをもっていた。そしてまたそれ以上に、家康は、秀秋の生来の臆病さをよく知っていた。同時に、大きな恩のある家康に対しては根底では申し訳ない気持ちも抱きつつ松尾山に陣取っている、その秀秋の心の内も、しっかりと読み取っていた。

結果として、鉄砲催促は功を奏し、小早川秀秋は、西軍を裏切り、東軍につき、一気に西軍の横っ腹を突き崩して家康に勝利をもたらした。

◆数奇な運命 ― トリックスター小早川秀秋の誕生

小早川秀秋

1577年、小早川秀秋(幼名、木下辰之助)は、豊臣秀吉の正室である寧々(ねね)(北政所)の兄の子として生まれた。秀吉には実子が無く、血縁者が少なかったこともあり、寧々はその子を養子として引き取った。その子は羽柴姓となった。
子が無かった秀吉の養子として、一時は、秀吉の最有力後継者候補となっていた。

秀吉と秀秋との関係

しかし、あとになって秀吉の側室、淀殿に子が生まれた。実子、豊臣秀頼である。

結果として秀秋は、後継者ではなくなった。幼少時は才能があるように思われ、期待もされた秀秋であったが、長じるにつれ、その凡庸さ、幼稚さ、わがままで臆病な性質が明らかとなってきていた。そして、将来、秀頼を支える頼りがいのある存在となるよりは、むしろその害となる可能性が高いと思われるようになった。

カプコンのゲーム「戦国BASARA」での小早川秀秋

まだ秀吉の愛顧は受けていたが、豊臣家の将来を案じる周囲の家臣には、厄介者扱いされるようになってしまった。寧々(北の政所)も、自分が養子として引き取ることを決めたということを後悔していたようでもあった。そのかんばしくない成長ぶりを見て、期待が裏目に出た故でもあっただろう。

秀吉の家臣、黒田官兵衛が、秀秋を近くに置いておけば、家臣団を巻き込んでのトラブルとなる可能性があり、豊臣家にとっても秀秋にとっても良くないと考え、外へ養子に出そうとした。官兵衛は、その優秀すぎる能力のため、閑職に遠ざけられていたのであるが、単に策士としての興味から、勝手なおせっかいで、自分から動いた。

官兵衛は、それなりの大名で、まだ子がない家として、毛利家をターゲットに選んだ。そして毛利家の重臣であり、かつ自らも大名であった小早川隆景に話をもちかけた。優れた武将であった隆景は、もちろん表面上は、毛利家、豊臣家双方にとって、大変喜ばしいことであると、官兵衛の申し出に大変喜んでみせた。しかし本音は、源頼朝の鎌倉幕府の重臣、大江広元から続く伝統ある家格の毛利家に、どこの馬の骨とも知れない秀吉の義理の甥を迎えるなどということを、どうしても避けたかった。

小早川隆景

(正妻の子としては)自らも子が無かった隆景は、自分自身の養子として秀秋を迎えることで、自身の家系を犠牲とし、毛利本家には毛利一族から養子を立てた。そうして、関白秀吉に対する失礼のない体面をどうにか保った。

豊臣家で邪魔者扱いとなった秀秋が、毛利家に押し付けられそうになったことろ、隆景が奔走して犠牲となり、毛利家を守ったわけである。こうして秀秋は筑前52万石を継いだ。

◆小早川秀秋の心に、巧みに取り入る家康

その後、秀吉により、第二次朝鮮出兵が行われ、16万の将兵の元帥に、一族である秀秋が選ばれた。もちろん形の上での総大将である。朝鮮でのある勝ち戦の際、秀秋は、持ちかえの無邪気な狂騒によって、調子に乗って総大将でありながら、周りの制止をはらいのけ、自身、槍をもって総崩れの敵を追撃して、13騎の敵を討ち取ったりした。このことが、「総大将の振舞いに相応しくない」として、あとで石田三成の讒訴にあい、養父である豊臣秀吉に、きつく叱責され、石高を52万石から15万石に減らされることになってしまった。秀吉にとがめられたとあっては、誰も味方してくれはしない。三成は、秀頼様のためにはこの辺で秀秋を一度叩いておいた方がよいと考えたのである。

このとき、家康は、表向きは、秀吉政権の大御所として、実子の秀頼の後見人として近侍していたのであるが、その様子を間近で見ていた。彼は、最大級の親切心と同情心を、秀秋に示した。

悲嘆に対して、最大級の理解と同情を示したわけである。

悲嘆(0.5の感情のレベル)→同情(0.9の感情のレベル)

秀秋は、大いに慰められた。また、その後、家康の秀吉へのとりなしにより、秀吉から秀秋への勘気も和らげられた。

家康のおかげで、石高もそれほど減らずに済んだ。まもなく、秀吉が死ぬ。

◆秀秋をどう動かすか ― 関ケ原前夜の家康と三成

石田三成

そして、全国の大名たちは、淀君、秀頼を奉じる石田三成方と、家康方とに分かれる。

小早川秀秋は、立場上、秀頼の義兄であり、本来であれば、これまでの恩に報い、誰よりも豊臣一族を支えることに尽くすべき立場にある。
しかし、彼は、三成とは仲がよくなく、恩義のある家康に近い立場でもある。

そうしてこの二つの陣営の激突、関ケ原の合戦が起ころうとしていた。

秀秋は、臆病な人間であるのだが、この時は虚勢を張りながら、1万5千の軍隊を率いて、ある時は石田方について小競り合いを戦ったが、かといって石田方の命にも完全には従わず、その軍は独自な動きをしていた。三成にも、家康にも、密使を使わせながら、有利な条件を引き出そうとしていた。

石田三成は、金銭で彼を釣ろうとした。また、秀頼成人までの間、関白の地位を秀秋に与えるとまで申し出た。三成は、秀秋に追従(ついしょう)し、ご機嫌取りをして懐柔しようとしていたわけである。
対する秀秋は、根本に臆病さを持ちながらも、ずる賢く漁夫の利を狙おうとしていた。

秀秋(1.1のレベル)→三成(0.7の追従のレベル)
(感情のレベルの数値については、備考の表を参照)

相手より低い感情のレベルでアプローチしようとした、この交渉はうまくいかなかった。秀秋の慢心をあおり、「三成はなんとでもなる」と思わせたかもしれない。

対して、家康はどのように秀秋に対したか。

家康は、秀秋からの密使に対して、終始冷たくあしらってきた。
「忘恩の秀秋。どっちにつこうが、どっちにでもすきにせい。そもそも彼はこちらからコントロールしようとしても徒労に終わるだけであるし、そもそもそのような不確定因子に期待などするべきではない」という態度だった。ただ寝返りの約束は、一応取り付けていた。
(2.5の退屈のレベル)

家康の周りにいた家臣や諸大名は、そんな家康の態度に気が気でなかった。「これから大合戦が起ころうとするとき、現時点で1万5千の大軍を率いてきている彼が、せっかく裏切ってこちらに就こうというのに、そんなそっけない態度で接して、結局反発させて、気が変わってそのまま三成方で戦ってきたらどうするのですか! あまりにもったいない!」
(1.0の恐れのレベルのあたり)

◆秀秋の感情レベルを巧みに読み取っていた家康

さて、実際に、関ケ原の戦い、当日となった。
慶長5年(西暦1600年)9月15日、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)において、
石田三成らの西軍10万と、徳川家康率いる東軍7万が激突した。

午前7時頃に戦闘がはじまり、午前中の経過では、大方の予想に反して、西軍が結構善戦した。

さて、秀秋としては、正直なところ、戦局をみて、有利な方について勝利するつもりだったはずである。

もしこのまま西軍が押して来れば、秀秋が寝返る可能性が低くなってしまう。

昼すぎ頃、家康は、有名な、鉄砲での寝返り催促を指示した。

サイト:城と史跡の写真館「古戦場 関ヶ原」より

「いつまでのんきに山の上で見物してるのか! 早く約束通り石田軍の横っ腹を突き崩せ!」
根が臆病で、無責任な日和見を決めていた秀秋は、打ち込まれてくる鉄砲に、震えあがった。家康という人間の怒りに恐怖した。彼の頭には、家康に怒られないように、その意に従順に従うことしか頭になくなっていた。

秀秋(1.1のレベル)→家康(1.5の怒りのレベル)

秀秋は、西軍の横っ腹を突き崩し、これは合戦の大局を変え、東軍に大勝をもたらした。
午後2時ころには、決着がついた。

勝利した家康の幕下で祝杯が挙げられていた。
しかし秀秋はなかなか現れなかった。家康に、たいそう怒られると思い込んでいたのである。
勝利の最大の功労者は自分であるのに。

その後、小早川秀秋は大名として加増され、37万石から55万石なるが、跡継ぎが無かったため、小早川家は取り潰しとなってしまった。

西軍の名目上の総大将であった、毛利輝元は、その知行を減らされ、中国地方8ケ国の大大名から、長門と萩の2カ国の大名となった。が、毛利家は生き残った。(※1)

家康は相手の状態を正しく読み取り、それに合わせて自分自身の感情や態度を柔軟に適切に変化させることができ、相手を適切にコントロールする能力に非常に長けていた。

一つの逆の典型が石田三成であり、豊臣家に対する忠誠心は絶対的なものであったが、逆にその生真面目さと、厳格主義が、福島正則や加藤清正らの離反を招いたともいえる。固定観念とルールだけでは、人はコントロールできない。

家康にはそのような観念はなかった。天下を狙ってはいるが、状況次第とみており、天下を取れようが、取れまいがこだわらない姿勢をもちつつ、時局時局に適切に対処してきただけであった。


追伸
※1
小早川隆景の苦肉の策によって、「秀秋」カードを引かなかったため、生き残ったとも言えるかもしれない、本家の毛利家は、その後、約250年して、徳川家を倒すことになる。


備考:

◆感情のレベル:

4.0 熱中(enthusiasm)
3.5 快活(cheerful)
3.0 保守的(conservatism)
2.5 退屈(boredom)
2.0 敵対心(antagonism)
1.5 怒り(anger)
1.1 秘められた敵意(covert hostility)
1.0 恐れ(fear)
0.9 同情(sympathy)
0.8 追従(ついしょう)(propitiation)
0.5 悲嘆(grief)
0.05 無気力(apathy)

(教材より)

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◆内容は、主に、司馬遼太郎著『金吾中納言』に従っています。鉄砲/大砲での催促については、聞こえなかった、どの方向からかは分からなかったはず、といった説もあります。


参考文献:

『金吾中納言』司馬遼太郎

1分で分かる関ヶ原の戦い(当日の状況を簡単にまとめたもの): http://senjp.com/sekigahara/

(わかりやすい)関ヶ原の戦い(戦いの前後の流れを含む): kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm

小早川隆景について: http://history.c.ooco.jp/takakage.htm

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用語解説:

トリックスター:神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回す存在。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者などの二面性を持つのが特徴。

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